大山十五世名人が辿った足跡
昨日のブログで、私は「大山十五世名人と私には似た境遇がある」と書きました。
70歳を迎える手前で大病に見舞われたという点で、私と大山名人は共通しています。
そこで今回は、大山康晴十五世名人の生涯を振り返り、その歩みをたどってみたいと思います。
倉敷で生まれた天才少年
大山康晴は倉敷市に生まれ、幼いころから将棋の才に恵まれていました。
小学校卒業後の13歳で大阪に渡り、関西の雄・木見金次郎八段の内弟子になります。
入門して間もなく、兄弟子との角落ち三番勝負に挑んだ大山。
地元では敵なしだった自信もあり、「負けるはずがない」と思っていました。
ところが結果はまさかの3連敗。
そのとき「君は見込みがない、田舎へ帰りなさい」と言い放ったのが、後に宿命のライバルとなる升田幸三でした。
宿敵との出会いが棋風を変えた
繰り返し対局するうちに、大山の棋風は攻め将棋から受け将棋へと変わっていきます。
升田の鋭い攻めを受け切るためには、防御の力を磨くしかなかったのです。
つまり、大山を育てたのは兄弟子であり宿敵でもある升田幸三でした。
夜を徹して盤を挟んだ二人。
そこには互いに「もっと強くなれ」という思いが秘められていたのかもしれません。
高野山の戦いと名人奪取
昭和23年、二人の名勝負として語り継がれる「高野山の決戦」が行われました。
雪が舞う厳寒の中、高野山金剛峰寺での三番勝負を大山が2勝1敗で制します。
第3局では升田が優勢を築きながら、一手受けを誤って逆転負け。
そのとき升田が残した「錯覚いけない、よく見るよろし」という言葉は、今も将棋ファンに語り継がれています。
この対局こそが、二人の永遠のライバル関係を決定づけました。
その後、大山は三度目の挑戦で木村名人を破り、29歳で名人位を奪取。
さらに5期連続防衛を果たし、永世名人の資格を手にします。
しかし、宿敵・升田に名人を奪われ、無冠となる苦しい時期も訪れました。
それでも大山は、不死鳥のように蘇ります。
やがて五冠王となり、当時存在するすべてのタイトルを独占。
名実ともに将棋界の頂点に立ったのです。
ライバルとの深い絆
大山と升田は、激しく争いながらも互いを高め合った存在でした。
その関係を象徴するのが、1991年に升田が73歳で亡くなったときの出来事です。
大山はすぐに通夜へ駆け付け、静かにこう言いました。
「升田さんと私との付き合いは、奥さんより長いんですからね。」
長年の戦友を悼むこの言葉には、深い友情がにじんでいました。
勝負師として火花を散らしながらも、二人の間には強い絆があったのです。
普及活動と将棋界への貢献
1973年、大山は無冠となりましたが、その頃日本将棋連盟の会長に就任。以後、東京と大阪の将棋会館の建設に携わり、将棋の普及と振興に尽力しました。勝負師としての功績だけでなく、将棋界全体の発展に寄与した功労者でもあったのです。
晩年の大手術と不死鳥の復活
晩年、大山は肝臓の半分を摘出する大手術を受けました。
しかし、退院からわずか28日後には対局に復帰。
翌年がんが再発しても、再び盤上に立ち続けます。
痛みを抱えながらも指し続けるその姿は、まさに「将棋を指すことが生きること」そのものでした。
多くの人々が、その生きざまに深く心を打たれたのです。
不死鳥の所以
大山康晴十五世名人は次のような偉業を残しました。
- 公式タイトル獲得:80期
- 一般棋戦優勝:44回
- 通算勝利数:1433勝
- タイトル戦番勝負:50回連続出場
- 順位戦A級在籍最年長記録:69歳4か月
特に私が感銘を受けるのは、亡くなるその瞬間まで一度も降級せず、A級に在籍し続けたことです。
晩年は再発を繰り返すがんと闘いながらも、「引退」を口にすることはありませんでした。
つまり、大山は“現役A級棋士”のまま69歳で亡くなったのです。
彼の棋士人生は「引退」ではなく「死去」によって幕を閉じました。
最後まで盤上に立ち続けたその姿こそ、不死鳥と呼ばれる所以です。
そしてその生涯は、今も将棋史に燦然と輝き続けています。命尽きる瞬間まで戦い続けたその姿こそ、大山康晴十五世名人が「不死鳥」と呼ばれる所以であり、将棋史に永遠に刻まれる偉大な生き様であると私は思います。

私自身の病と将棋の挑戦
大山十五世名人の人生を振り返ると、私はどうしても自分自身の歩みと重ねてしまいます。
心臓のステント手術、胃がん、涙管の不調、前立腺がん――。
四度の大病を経験しながらも、私は今も将棋を続けています。
もちろん、名人のようにA級で戦ってきたわけではありません。
しかし、「病に屈せず将棋に挑み続ける」という姿勢において、共通点を感じるのです。
大山が「不死鳥」と呼ばれたように、私もまた「70歳からでも脳は衰えない」ということを自ら証明したい。
将棋は、私にとって生きる力であり、希望の光そのものです。
これからも「病魔を超えて将棋で輝く」というテーマを胸に、一歩ずつ前へ進んでいきます。

